パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)(1881年10月25日 – 1973年4月8日)は、「20世紀最大の画家」と呼ばれる芸術家です。彼はキュビスムと呼ばれる技法を生み出し、美術界に大きな影響を与えました。
また、絵画以外にも、彫刻、陶芸、版画、舞台装置、タピストリーといった幅広い分野で活躍し、作品数は約15万点と、最も沢山の作品を作った芸術家として「ギネスブック」にも登録されています。
パブロ・ピカソの生涯
葉巻の煙とともに誕生したピカソ
パブロ・ルイス・ピカソは、1881年10月25日の23時15分に、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市で誕生しました。
実は、その出生の瞬間はほとんど悲劇的なものでした。生まれたばかりのパブロには生命反応が無く、助産師が蘇生を試みるも失敗。家族と助産師は赤ちゃんは死亡したと思い込んでいたそうです。
しかし、父ホセの兄にあたる医師のサルバドールが、今日では絶対に考えられない方法で蘇生を試みました。その方法とは、葉巻の煙を赤ちゃんの鼻腔に大量に吹き込むというもの。葉巻の煙を吸ったおかげで、死亡したと思われて数分後にパブロは泣きはじめます。
叔父サルバドールのその行動は、家族に言葉では言い表せない喜びをもたらしただけではありません。彼の行動がなければ、20世紀最大の画家パブロ・ピカソの存在もなく、今日の美術史は全く違ったものになっていたでしょう。
幼少期から10代で頭角を表すまで
ピカソは幼少期から、画家で美術教師でもあった父ホセ・ルイス・イ・ブラスコの指導のもとで絵を描きはじめました。
みるみるうちに才能を開花させたピカソは、8歳の頃には初めての油絵作品《ピカドール》を制作します。
パブロ・ピカソ《ピカドール》1890年
父ホセが闘牛狂だったこともあり、幼いパブロもまた闘牛が大好きでした。子供の頃の夢はピカドール(競技がはじまる前、馬上から槍で突いて牛を怒らせる役の闘牛士)だったこともあるそうです。
13歳の頃には写実的な絵画技法を使いこなし、画家を志し始めました。
1895年、一家は芸術の中心地であったバルセロナに移住します。
ピカソが15歳で制作した《叔母ぺパの肖像画》は、美術史家ファン・エドワード・シロットにより「スペイン全美術史で最も優れた作品の1つ」と評されました。
パブロ・ピカソ《叔母ぺパの肖像画》1896年 ピカソ美術館(バルセロナ)
さらに、1897年には父の指導のもと描いた《科学と慈愛》がマドリードの国展で佳作を受賞。
パブロ・ピカソ《化学と慈愛》1897年 ピカソ美術館(バルセロナ)
バルセロナでは、ピカソはムンシオー通りにあったカフェ「四匹の猫(Els Quatre Gats)」に通い、仲間たちと芸術論や哲学について語りあいました。
1900年にパリを訪れてからは、パリとバルセロナを行き来するようになります。
青の時代
1900 年〜 1904 年までの期間、ピカソは青と青緑の色合いを基調にした絵画を描きました。ピカソの青春期の陰鬱な作風は「青の時代」と呼ばれています。
パブロ・ピカソ《老いたギター弾き》1903年-1904年 シカゴ美術館
青の時代に描かれたテーマは、物乞い、盲人、売春婦、酔っ払いなど社会の底辺に生きる人々です。
この陰鬱な作風が生まれたきっかけは、友人カルロス・カサジェマスが失恋を理由にパリにあるヒッポドローム・カフェで自殺したこと。ピカソ自身が後に「カサジェマスの死を知ったとき、青で絵を描き始めた」と回想しています。
現在は人気がある青の時代ですが、当時はあまり売れず、経済的に不安定な時期でもありました。
バラ色の時代
1904 ~ 1907 年ごろに描かれた、温かく明るい色調を使った作風を「バラ色の時代」と呼びます。
1904 年、ピカソはパリのモンマルトル地区にある多くの有名芸術家が暮らした集合アトリエ住宅、「洗濯船(Bateau-Lavoir)」で暮らしはじめました。
そこで出会ったのが、フェルナンド・オリヴィエです。彼女と交際を始めてから作風は温かくなり、サーカスの旅芸人やその家族を好んで描くようになります。
パブロ・ピカソ《猿のいる軽業師の家族》1905年 イェーテボリ美術館
バラ色の時代から、美術界でのピカソの名声は高まっていきます。
キュビスムの時代
強烈で個性的な作風で有名なピカソですが、先人の優れた芸術作品の技術を吸収することにも長けていました。ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、エル・グレコといった巨匠の作品だけではなく、アフリカの原始美術からも影響を受けていたのです。
古今東西の芸術のエッセンスを吸収したピカソは、1907 年、《アヴィニョンの娘たち》を制作します。
パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》1907年 MOMAニューヨーク近代美術館
《アヴィニョンの娘たち》に衝撃を受けたジョルジュ・ブラックとともに、ピカソは新たな芸術運動「キュビスム」を始動していくことになります。
キュビスムとは、モチーフを立方体のように幾何学的に変化させ、再構成することで絵画を抽象的な表現へと変化させる手法のこと。
簡単に言うと、「一つの視点ではなく複数の視点から見た面を一つのキャンバスに収めること」がキュビスムの特徴と言えます。
キュビスムについてはこちらの記事で詳しく解説しています。
1912 年、パリのモンパルナスへ移住。
フェルナンド・オリヴィエとの関係は破綻し、新しい恋人エヴァを連れてアヴィニョンへ出かけるようになります。
1914 年、第一次世界大戦が勃発。
ジョルジュ・ブラックやアポリネールら友人たちが軍に入隊する一方で、ピカソはスペイン人であり、また反戦論者であったため志願することはありませんでした。
戦時下の暗い状況のなか、恋人エヴァが結核でなくなります。
新古典主義の時代
1917年から、ピカソは写実的な古典絵画へ回帰するようになります。
新古典主義の時代です。
1917年の2月、ピカソは初めてイタリアを旅行しました。フィレンツェやローマで、ラファエロ、ミケランジェロといったルネサンス美術や、古代の芸術を浴びるように観た経験は、彼の作品にも反映されていきます。
1917年、ロシア・バレエ団の舞台装置や衣装の製作ためにイタリアのローマに滞在。
そこで、彼はバレリーナのオルガ・コクローヴァ(27歳)と出会い、1918年には彼女と結婚します。
結婚の1年前にピカソが描いたオルガの肖像画および写真がこちらです。
顔や身体は陰影のある古典的な技法。しかし、ソファーは貼り付けられたように平面的で、キュビスム的です。新古典主義とキュビスムが組み合わせられた、美しくも不思議なピカソらしい作品ですね。
気品と美しさをもつオルガは、旧ロシア将軍の娘で貴族の出身でした。オルガとの結婚をきっかけにピカソは上流階級と交流を始めます。
また、この頃の作品はオルガの希望もあり、キュビズム的表現は影を潜め、新古典主義のスタイルに移り変わります。
どっしりと量感があり、手足が大きく、古代のギリシャ彫刻のように額から続く高い鼻などが特徴です。
パブロ・ピカソ《母と子》1921年 個人蔵
シュルレアリスムの時代
1920 年代、心理学者ジークムント・フロイト の著書の影響を受けて、ピカソはシュルレアリスムという文化運動に魅かれていきます。
シュルレアリスムとは、理性を排除することによって先入観から離れ、無意識の思考を表現する運動のこと。画家として代表的なのは、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリットなどが挙げられます。
1925年、シュルレアリスムの作家で詩人のアンドレ・ブルトンは、『Révolution surréaliste』誌に掲載された論文「Le Surréalisme et la peinture」の中でピカソを「one of ours(我々の仲間だ)」と宣言。
ピカソは1925年の最初のシュルレアリスムグループ展でキュビスム作品を展示しました。
ダリはピカソを敬愛していたようで、この頃から数十年にわたり、ピカソに好意を伝える約100通の手紙やポストカードを妻のガラとともに送り続けました。
しかし、『シュルレアリスム宣言』で定義された「純粋な精神的オートマティスム」という概念は、彼にとって完全には魅力的ではなかったようです。
ピカソは自分自身を感情的に表現する方法を開拓していきました。
典型的な例は、 1925 年の《三人の踊り子》です。
この頃は妻のオルガと不仲だったため、作品からも精神的な不安定さがうかがえます。
パブロ・ピカソ《三人の踊り子》1925年 テート美術館
ピカソの後期作品
1936年、スペイン内戦が勃発。
これまで、政治には無関心だったピカソは、スペイン内戦をきっかけに政治に関心を持つようになります。
その結果、誕生したのが1937年の《ゲルニカ》です。
パブロ・ピカソ《ゲルニカ》1937年 ソフィア王妃芸術センター
3.5m×7.8mという壁画サイズのキャンバスに描かれたゲルニカからは、戦争の悲劇と罪のない民間人の苦しみが強烈に伝わってきます…
この作品により、ピカソは反ファシズムの象徴となります。
1944 年にパリが解放された後、ピカソは共産党に入党し、平和運動に積極的に参加。
1949 年のパリ世界平和会議では、ピカソが作成した写実的な『鳩』の絵が平和運動の公式シンボルとして採用されました。
Congres Mondial des Partisans de la Paix 1949年 MOMA
この絵に描かれた鳩のモデルは、ピカソの友人である画家アンリ・マティスから贈られたミラノ鳩だそうです。
鳩のモチーフはその後もシンプルな線で描き続けられます。
パブロ・ピカソ《平和の鳩》1949年
この頃には私生活にも大きな出来事が起こります。
1943年、60歳を過ぎたピカソはまだ学生だったフランソワーズ・ジローと出会い、同棲生活を始めました。
やがて二人の間にはクロードとパロマ(スペイン語で「鳩」という意味)という子供たちが生まれますが、フランソワーズはピカソの支配欲の強さに愛想を尽かし、子供たちを連れて家を出てしまったのです。
ピカソの人生にはこれまでたくさんの女性が登場してきましたが、この出来事には大きなショックを受けたといいます。(とはいえ、すぐにジャクリーヌ・ロックを見初めて交際を始めるのですが…)
1950年代からは古典作品をピカソ流にアレンジした作品を作り上げます。
パブロ・ピカソ《ラス・メニーナス(ベラスケス)》1957年
スペイン絵画の黄金期の傑作、ベラスケスの《ラス・メニーナス》を元ネタにピカソは連作を作っています。
ピカソの晩年
ピカソの晩年の作品には多様なスタイルが混在し、彼の表現は終生変化していきました。
1968年から1971年にかけては、大胆でカラフルな作品を数百点制作。
当時は全盛期を過ぎた画家の駄作として無視されましたが、彼の死後、美術界が抽象表現主義から移行し始めた後になって、批評家たちはピカソが新表現主義を先取りしていたことに気づきました。
パブロ・ピカソ《裸婦とパイプを持つ男》1968年
当時、このようなスタイルは世間から受け入れられなかったものの、ピカソ自身は「この歳になってやっと子どもらしい絵が描けるようになった」と喜んでいたようです。
1973年4月8日、享年92歳でピカソはこの世を去ります。
死因は急性肺気水腫でした。
発見時、彼の周りにはクレヨンが散乱していたといいます。
92歳を超えてなお、最後まで創作意欲に満ちあふれていたことが分かるエピソードです。
死の前日、4月7日の夕食時に残した最期の言葉です。
私のために、私の健康のために飲んでくれ。知ってるだろう、私はもう飲めないんだ。
余談ですが、同年、ミュージシャンのポール・マッカートニーがこの言葉を使って『PICASSO’S LAST WORDS(邦題「ピカソの遺言」)』を作曲し、大ヒットを記録しました。
パブロ・ピカソの本名は?
ピカソの本名は非常に長く、ピカソ本人さえ覚えていなかったという話もあります。
ピカソのフルネームは、次の通りです。
[ ピカソの洗礼名 ]
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・クリスピン・クリスピニャーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ・ルイス・イ・ピカソ
[ 役所に提出されたピカソの出生証明書 ]
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ
ピカソの本名が長い理由、名前の意味、そしてネットで話題となった「ピカソの名前は『ツルハシ便利』という意味である」説の真偽についてはこちらの記事で解説しています。
陶器の絵皿作品
常に新しい表現方法を模索していたピカソは、1946 年から 1973 年にかけてオリジナルの陶芸作品を作成します。
陶芸に夢中になったきっかけは、第二次世界大戦の終結後、南フランスのヴァロリスへ旅行したことでした。ヴァロリスは小さな海沿いの町で、陶器制作が盛んな地域です。
過去にも多少は陶芸制作の経験があったものの、ほぼ素人のピカソは技術的に苦戦することもありました。
例えば、陶器の表面に絵を描くために使用したさまざまな釉薬は、塗布中はくすんでいるかほとんど透明に見えますが、窯で焼く過程でその色は鮮やかに、ときには予想外に発色します。長い経験を積んできた職人でもなければ、なかなか焼き上がりは予測できないのです。
しかし、ピカソは前向きに、何度も試行錯誤を繰り返しました。
それほど難しい陶芸に、なぜピカソは挑戦したのでしょう?
理由はいくつかありましたが、一つには、陶芸作品をいかに迅速かつ安価に作成できるかに興味をそそられたことが挙げられます。
富裕層だけが自分の絵画や彫刻を購入できる現状に対して、陶器ならば自分の作品が一般の人々によって所有される可能性がある、という考えに魅了されたのです。ピカソはまた、純粋に陶器の機能的な美しさも気に入っていました。
(パークウェスト・ファインアートミュージアム&ギャラリーの写真から引用)
日本でピカソの陶芸作品を観たいなら、箱根にある彫刻の森美術館がおすすめです。
ピカソ館では319点という膨大なコレクションを順次公開しており、ユニークな陶芸作品を間近で観ることができます。
ピカソとジョルジュ・ブラックの交流
ピカソとともにキュビスムを興したのがジョルジュ・ブラックです。
キュビスム始動のきっかけとなったのはピカソの《アヴィニョンの娘たち》でした。アトリエで初めてこの作品を見せられたブラックは衝撃を受け、自らも制作を開始。知り合った翌年には毎日のようにお互いのアトリエを訪ねるほど交流を深めました。
当時、ピカソとの関係について、ブラックは「私たちはザイルで結ばれた登山者のようでした」と語っています。
ジョルジュ・ブラックの生涯と代表作品についてはこちらをご覧ください。
ピカソとマティスの交流
ともにモダンアートの新時代を築いたアンリ・マティスとピカソ。
二人は互いにアトリエへ行くほどに仲が良く、ときにライバルとして探り合い、批判をしながらも認め合う関係を築いていきました。
ピカソはかつて「もし自分が作っている絵を描いていなかったら、マティスのように絵を描いていただろう」と言いましたが、マティスもピカソについてほぼ同じことを言ったそうです。
ピカソはマティスとの関係についてこのように語っています。
No one has ever looked at Matisse’s painting more carefully than I; and no one has looked at mine more carefully than he.
私ほどマティスの絵を注意深く観察した人は誰もいません。そして彼ほど私のものを注意深く観察した人もいません。
アンリ・マティスの生涯と代表作品についてはこちらをご覧ください。
ピカソと暮らした動物たち
ピカソは大の動物好きでもありました。
20代の頃には、野良のシャム猫にミノーと名付けて可愛がっていたエピソードが知られています。
ピカソのそばには猫や犬、鳩、ヤギまでいました。
ピカソの最後の相棒となったのが、ダックスフントのランプです。
基本的には誰も出入りできなかったアトリエも、ランプだけは特別に許されていました。
ランプは17歳まで生き、ピカソと同じ年に亡くなりました。
ランプとピカソの生活は、写真家デイヴィッド・ダグラス・ダンカンの写真集『ピカソと愛犬ランプ あるダックスフントの冒険』に収められています。
デイヴィッド・ダグラス・ダンカン(著)、ランダムハウス講談社
https://honto.jp/netstore/pd-book_02905275.html
晩年のピカソと妻ジャクリーヌ、家族との暮らしが生き生きとした写真とユーモラスな文章で綴られている、本当に素敵な本です。。
ピカソの名言
パブロ・ピカソはたくさんの名言を残しました。その中の一部をご紹介します。
Good artists copy, great artists steal.
優秀な芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む。
Art is not made to decorate rooms. It is an offensive weapon in the defense against the enemy.
芸術は部屋を飾るためにあるのではない。敵から身を守るための攻撃的な武器なのだ。
Every child is an artist. The problem is how to remain an artist once he grows up.
すべての子供は芸術家である。問題は、成長した後もアーティストであり続けられるかどうかだ。
It took me four years to paint like Raphael, but a lifetime to paint like a child.
ラファエロのような絵を描けるまでに4年かかったが、子どものように絵を描くには生涯かかるだろう。
Everything you can imagine is real.
想像できることは、すべて現実である。
Only put off until tomorrow what you are willing to die having left undone.
明日に先延ばししてもいいのは、やり残して死んでもかまわないことだけだ。
My mother said to me, ‘If you are a soldier, you will become a general. If you are a monk, you will become the Pope.’ Instead, I was a painter, and became Picasso.
母は私にこう言った、『兵士になれば将軍になれる。修道士になればローマ法王になれる』と。代わりに私は画家になり、ピカソになった。
ピカソの作品ギャラリー
パブロ・ピカソ《青い部屋》1901年
パブロ・ピカソ《青い部屋》1901年
パブロ・ピカソ《自画像》1901年
パブロ・ピカソ《自画像》1901年 ピカソ美術館(パリ)
パブロ・ピカソ《酔った女》1902年
パブロ・ピカソ《酔った女》1902年
パブロ・ピカソ《シュミーズ姿の少女》1905年
パブロ・ピカソ《シュミーズ姿の少女》1905年 テート美術館
パブロ・ピカソ《曲芸師と幼いアルルカン》1905年
パブロ・ピカソ《曲芸師と幼いアルルカン》1905年 バーンズコレクション(フィラデルフィア)
パブロ・ピカソ《母と子》1905年
パブロ・ピカソ《母と子》1905年 シュトゥットガルト州立美術館
パブロ・ピカソ《アルルカンの家族》1905年
パブロ・ピカソ《アルルカンの家族》1905年 個人蔵
パブロ・ピカソ《オルタ・デ・エブロの工場》1909年
パブロ・ピカソ《オルタ・デ・エブロの工場》1909年 エルミタージュ美術館
パブロ・ピカソ《ウーデの肖像》1910年
パブロ・ピカソ《ウーデの肖像》1910年 個人蔵
パブロ・ピカソ《グラスとSuzeの瓶》1912年
パブロ・ピカソ《グラスとSuzeの瓶》1912年 ワシントン大学アートギャラリー
パブロ・ピカソ《ギター》1913年
パブロ・ピカソ《ギター》1913年 MOMAニューヨーク近代美術館
パブロ・ピカソ《若い娘の肖像》1914年
パブロ・ピカソ《若い娘の肖像》1914年 ポンピドゥーセンター
パブロ・ピカソ《シュミーズを着た座る女性》1923年
パブロ・ピカソ《シュミーズを着た座る女性》1923年 テート美術館
パブロ・ピカソ《ピエロに扮したパウロ》1925年
パブロ・ピカソ《ピエロに扮したパウロ》1925年 ピカソ美術館(パリ)
パブロ・ピカソ《泣く女》1937年
パブロ・ピカソ《泣く女》1937年 テート美術館
パブロ・ピカソ《鳥を捕らえた猫》1939年
パブロ・ピカソ《鳥を捕らえた猫》1939年 ピカソ美術館
パブロ・ピカソ《手を組んで座るジャクリーヌ》1954年
パブロ・ピカソ《手を組んで座るジャクリーヌ》1954年 ピカソ美術館(パリ)
パブロ・ピカソ《ドン・キホーテ》1955年
パブロ・ピカソ《ドン・キホーテ》1955年
パブロ・ピカソ《ラス・メニーナス(ベラスケス)》1957年
パブロ・ピカソ《ラス・メニーナス(ベラスケス)》1957年
パブロ・ピカソ《ピアノ(ベラスケス)》1957年
パブロ・ピカソ《ピアノ(ベラスケス)》1957年
パブロ・ピカソ《帽子を被った女の肖像》1962年
パブロ・ピカソ《帽子を被った女の肖像》1962年 メトロポリタン美術館
パブロ・ピカソ《パイプを持つ男》1968年
パブロ・ピカソ《パイプを持つ男》1968年 個人蔵